文化や習慣の違いから生じる諸問題の解決方針

変わらないところを探し他は捨てる
SNSはてな匿名ダイアリーを見ていると、よく夫婦喧嘩の愚痴が流れてくる。たいていは「物をどこそこにしまうべきか」とか「バターナイフを都度洗うか」みたいな些細なこだわりが発端である。
生活上のこだわりが衝突する喧嘩の場合、その愚痴の本質は「自分は変わりたくない、相手が変わるべきだ」というメッセージになる。

一般的に、人間関係の問題を解決する方法は「自分が変わる」「相手が変わる」「環境ごと変える」の三択しかない。たいてい選ばれるのは解決せずに有耶無耶にする「先送り」だが、これは問題を解決していない。爆弾を埋め込んで将来またやり合うだけである。
「譲歩したら(自分が変わったら)負け」みたいな勘違いもある。どちらが変わるべきかは勝ち負けの問題ではないのだが、喧嘩に発展し対立するうちに負けられなくなるのだろう。

もっとも公平な解決策は「より無意識にやってしまう方を優先し、意識的にやっている方が行動を変える」である。
癖には変えやすいものから、ほとんど変わらないものまである。変えにくいものほど無意識にやってしまうもので、遺伝子とか数十年の蓄積で自動化された、理由の説明できない行為になっている。自動化された意識の及ばない行為は変えられない。自分だけど自分じゃない自分がそうしているのだ。誰しも、そのような変えられない癖を持っている。生活上の衝突で相手の無意識な癖に当たったら、意識的にやっているほうが譲るしかない。

喧嘩の種になるような癖を呪いのように思う人もいるかもしれないが、癖は単に性質である。性質が良いか悪いかという価値判断は、主観それぞれによる解釈にすぎない。それに、ある人の固有の性質は表現の特徴、スキル、魅力にもつながることが多い。癖は良くも悪くもはたらく。
また、自分に統制できない無意識的領域を居心地悪く感じることもあろうが、人間はそもそも動物である。身体活動のうち、意識が支配している部分のほうが少ない。変えられない性質、無意識があるという事実は認めてしまうのが楽である。自分の根本的な癖を見つけそれに依拠するのが「自分探し」のゴールであり、人生の幸福性の条件でもある。

もっとも、変えられない性質だからといって、開き直りすぎると良くない。無意識の仕業によって何か失敗をしたら、申し訳なさそうにはすべきである。喧嘩は態度で起こるので。

「変えたくないなぁ」同士が衝突するとケンカになるという視点はおもしろかった。

これは日常でのちょっとした習慣の違いに起因する衝突の話なので、異なる文化的・歴史的背景を持つ集団同士の摩擦を解消する話しではない。しかし、変えやすい方が変える方針にするとコストが少なくて済むんじゃないか、という始点はある意味では合理的だと思う。

最後のパラグラフの「変えられない性質だからといって、開き直りすぎると良くない。無意識の仕業によって何か失敗をしたら、申し訳なさそうにはすべきである」というのは、変えさせた側に対して相応にコスト分担すべきであると読み換えれば、一方的な譲歩のみに摩擦を回避しているわけではないという意味になる。

そして、「喧嘩は態度で起こるので。」という締めも実に示唆的だ。

如何にして、衝突を衝突とみせずに、譲歩する・譲歩してもらうかという交渉でのコミュニケーションにみえる。